昨シーズンの2024年、圧倒的最下位に沈んだ埼玉西武ライオンズも渡辺監督から西口監督へと監督刷新し、仕切り直しで挑みたいシーズンとなりました。
昨シーズンは1勝もできず、0勝11敗でシーズンを終え、リーグ最多敗戦投手で終わった髙橋光成投手。
シーズンオフには糖質制限などで減量をしました。
オープン戦では好投を見せていましたが、シーズン開幕3戦目(対日ハム戦)の先発投手では5回7安打6失点で敗戦投手となりました。
6失点はいずれも4番の野村選手(適時打1、本塁打2)のものでした。
これで昨シーズンからの連敗記録は12まで伸びました(4/8時点)。
この12連敗の記録は2022年、2023年の隅田知一郎に並ぶ球団記録となっています。
【追記】
2025/04/15:対オリックス戦で0-2で敗戦投手となり、球団ワースト新記録の「13連敗」を記録
では個人成績で投手のNPB史上最多連敗記録はいつ、誰が記録したものなのでしょうか?
NPB史上最多連敗記録は…
戦前から続くNPBプロ野球史上で「史上最多連敗記録」は洋松・大洋(現在の横浜DeNAベイスターズ)時代の「権藤正利」投手の「28連敗」です。
(洋松松竹ロビンスは1955年に大洋ホエールズへと球団名称を変更しています)

似た時期に中日所属の「権藤博」投手もいますが、全く別人です。
中日所属の権藤投手はあまりに連投に連投を重ねたため(1961年には先発型投手でありながら69登板、44先発、32完投、12完封、無四球勝利8、35勝とタイトルを総なめ)「権藤、権藤、雨、権藤(雨、雨、権藤、雨、権藤と続く)」という流行語も出ました。
プロとしての出だしは順調だった権藤投手
ルーキーイヤーの1年目の1953年には「15勝12敗」という成績を残し、「新人王」のタイトルを獲得しました。
活躍した翌年には調子を崩すことが多い(特に投手ならクセを見抜かれるのはいつの時代も同じです)中、翌年の54年も2年連続チーム最多となる「11勝」を挙げて、大洋投手陣のエースを不動のものとしたかに見えました。
余談ですが一方で1年目で105与四球、2年目では143与四球でリーグ最多与四球投手になっており、結構な荒れ球タイプだったようです。
転機となったのは3年目
さすがに2年連続で活躍すると、他球団のマークはさらに強くなります。
当然、チームも権藤投手本人もそれは承知だったでしょう。
対策として「ピッチングの幅を広げよう」と考え、変化球としてシュート、シンカーを覚えましたが、これが結果論ですが失敗となりました。
権藤投手はストレートで押していくタイプ、いわゆる「速球派」でしたが、変化球の幅を増やすために「軟投派」へとスタイルを変えてしまったために、ストレートの球威が落ちてしまったのです。
1953年の開幕後、4月に完封勝利1つを含む2勝を挙げたまではいいのですが、そこからは悪夢となる11連敗を記録しました。
奇しくも西武・髙橋光成投手と同じ記録を前半戦だけで記録しています。
今の時代なら普通はこうなるまでに2軍降格となりますが、時代が時代だったので先発投手はとことん投げさされました(この1950年代に中継ぎやセーブという投手の分業制は確立されておらず、先発投手は完投して当たり前の時代でした)。
しかし、本当の悪夢は後半戦から…
7月6日の対国鉄(現在の東京ヤクルトスワローズ)戦で4月以来となる2ヵ月半ぶりの3勝目を挙げ、自身の連敗記録は「11」でストップしました。
長いトンネルはここで終了…と思われましたが、本当の悪夢はここからでした。
7月9、10日の広島戦で2日続けて救援投手として登板するも、救援失敗で2連敗を喫しました。
ここでまたしても調子を崩したのか連敗に連敗を重ね「8連敗」となりました。
結局、1955年のシーズンは4月の2勝と7月6日の3勝しかできず、敗戦数は21敗となりました(シーズン記録は40登板、先発18、9完投、1完封勝利)。
なお、この1955年のシーズンも103与四球で最多与四球投手、同時に自責点82で最多自責点投手になっています。
復活を期した翌年の1956年は…
負の連鎖を断ち切りたい翌年の1956年でしたが、4月12日の阪神戦では先発で登板し8回を1点に抑えながらも打線の援護に恵まれず0対1で敗戦投手になりました。
打線の援護がなかったのはこの試合だけではありませんでしたが、結果として開幕から1勝もできず「0勝13敗」でシーズンを終えました。
昨シーズン後半戦からの8連敗と合わせると連敗記録は実に「21」にまで伸びました。
復活の狼煙が1957年に!
メディアでも21連敗という記録は持ち上げられ、家族からも心配され、引退も視野に入れたという権藤投手。
「このままでは終われない」と覚悟を決め、現役引退せず翌年も現役続行をしました。
しかし、覚悟だけではそう簡単に変われないのが厳しいプロの世界。
1957年も開幕から7連敗を喫し、ついに連敗記録は「28」にまで伸びました。
「もう限界で終わりか」と半ばあきらめかけていた中、七夕である7月7日の巨人戦でつに負の連鎖が断ち切れました。
この日も先発として登板し、巨人打線を4安打完封で抑え勝利となりました。
1955年7月からこの日1957年7月にわたる長き連敗記録を「28」で止めました。
なお、自身は3回に先制タイムリーを打ち、自援護もした権藤投手は「今日は記念すべき日になるでしょう」とうれし涙を流したようです。
同1957年は12勝と1954年以来の2桁勝利を収めました。
その後の権藤投手は?
翌年の1958年には3勝11敗と調子を崩し(なお、この1958年4月10日には巨人の長嶋茂雄にプロ初本塁打を献上しています)、さらに翌年は3登板で0勝1敗でシーズンを終えました。
さすがに、限界を感じたのか当時の三原監督に引退を申し出るも慰留され、現役続行となりました。
ここで先発から救援投手へと転向し、1960年には12勝5敗、防御率1.42という好成績でまたも復活となりました。
この年は大洋のリーグ初優勝、さらに日本シリーズで大毎(現在の千葉ロッテマリーンズ)でも救援投手で2試合に登板し、日本一に貢献しました。
1963年には1勝に終わり、球団は権藤投手を放出することに決めました。
放出先として、権藤投手の地元に近い西鉄ライオンズ(現在の埼玉西武ライオンズ)へ打診しますが、「自球団で引き取るには年俸が高すぎる」という理由で拒否され、あえなく自由契約となりました。
結果として、東映フライヤーズ(現在の北海道日本ハムファイターズ)へ移籍となりました。
しかし、25登板するも完封勝利1勝のみに終わり、またしても移籍となりました。
移籍先は「阪神タイガース」で決まりました。
阪神タイガースでも救援投手で起用され、1966年は4勝11敗ながら防御率は2.25でリーグ6位に入り、翌1967年には最優秀防御率(1.40)で新人の1953年以来のタイトルを獲得しました。
しかし、1973年には当時の阪神タイガースの監督である金田監督との確執がありました。
調べると、金田監督は権藤投手を揶揄した節があり、それに我慢できずに監督を殴打したようです。
(当時、チーム後輩だった江夏豊選手が手助けして立ち合ったようです)
当然ですが、球団選手が殴打事件を起こした以上、厳罰処分が下されますが、事件を起こす前に既に心の中で引退を決意していたようです。
連盟表彰もあったようですが、これを捨てての殴打事件で現役生活に幕を閉じました。
通算防御率は2.775の成績を残していながら117勝154敗と、37も負け越していながらも諦めずに現役を続行し、戦力外通告を受けずに実働21年を全うしたのは素晴らしい成績です。
なお、通算100勝達成時の登板数597と、敗戦数145はいずれもNPBの最多記録であり、今後絶対に破られないであろう記録(現在の投手分業制、球数や登板過多防止の観点から)を残しています。
まとめ
現在の西武ライオンズの髙橋光成投手は、2023年9月10日の日ハム戦以来、勝ち星に恵まれていませんが、今季には連敗記録を止めると予想しています。
それがいつになるかは分かりませんが、少なくとも20連敗を喫することはないでしょう。